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永田紅『日輪』五十首

永田紅『日輪』(砂子屋書房、2000年)より、五十首を選んだ。

永田紅河野裕子永田和宏を両親にもつ「塔」所属の歌人。現在生物化学の研究に携わっているが、この『日輪』にある歌が書かれたころには京都大学農学部の学生だった。基本文語の人なのだけど、そのなかにちょっと、上から目線だったり、情けなかったり、繊細なひとが後天的に獲得するタイプのぶっきらぼうさだったり、そういった口語が混ざってくるデリケートな作風。読んでいると、なんとなく倉田江美が描く水っ気のすくない女の子の絵を想像してしまう。ここには引かなかったけれどフリオ・コルタサルの『すべての火は火』というタイトルを詠み込んだ歌があったり、須賀敦子の本から採られたと思われる書店の名前が出てきたり、いわゆる文学少女だったみたいだ。

人はみな馴れぬ齢を生きているユリカモメ飛ぶまるき曇天

どのような大きさであれ暗闇に火を見る時に火は眠かりき

地理学の授業を残し風の日に「ほんやら洞」の二階に沈む

対象が欲しいだけなのだよ君もガレのガラスをいっしょに見ても

感覚は枯れてゆくから 明日君にシマトネリコの木をおしえよう

川のない橋は奇妙な明るさで失うことを教えてくれる

ねこじゃらしやがて枯れなむもうずっと孤りの君を見ていたのです

藤色のやわき栞を鉛筆の先でくずしていく貝図鑑

ああ君が遠いよ月夜 下敷きを挾んだままのノート硬くて

輪郭がまた痩せていた 水匂う出町柳に君が立ちいる

今日君と目が合いました指先にアセチルコリンが溜まる気がした

遠景にデュラム小麦が満ちている日がきっとある君の冬汽車

ろんろんと言葉が湧いてくるようにあなたを好きになったのだろう

しずもりていつもひとことたらざれば私は他人にたどりつけない

どこに行けば君に会えるということがない風の昼橋が眩しい

鍵束の木彫りの鯨ゆらゆらとまるい頭でついていくはず

ユリカモメ群れるかたさの冬が来る 空想癖は人に言わない

眼が覚めてもう会えないと気づく でも誰のしずかな鎖骨だったか

対岸をつまずきながらゆく君の遠い片手に触りたかった

歩きつつ考えるとき川沿いに回想録の文体をもつ

川をもつ町のひそかな引力に湿りて人は花を育てる

自分だけにかかりきっていられる毎日がありすぎるのだ しろい雨脚

あ、彼は良い父親になるならむ 自転車をひき遠ざかるとき

鳥居から砂利道になるほの白く踏み入るときに腕触れ合いぬ

擦れちがう偶然のため満月に時計台まで白かったのだ

偶然は大きな要素そしていつも自転車の関わる場面であった

らいらっくりらりらりらよ俯けば兄に似たると言ってしまえり

門をたたけ……しかし私ははるかなるためらいののち落葉を乱す

関係は日光や月光を溜めるうちふいに壊れるものかもしれぬ

切実な時空は何度あらわれるたとえば疵だらけの木蓮の道

風圧のとどく近さに白衣揺れ そののちの物語というものはない

あこがれは入れ子細工のくらがりを繰り返すごとひとりでに消ゆ

かなわざる混沌をもつ人が今日やさしかりけり睫毛をあげて

蠟燭を間に置いてこちら側という夢も見るはるかな食事

近づかば終わらむ思慕よ柳の葉引っぱりながらバスを待ちいる

自転車が停めしあたりに見つからず共に探しぬ すごい月やねえ

あらわなる肘より先を差し入れてあなたの無菌操作うつくし

突き合わす両手の指を口許へ 問題なのは濃度だろうね

ひつじぐも 君が私に気付くべき秋にも雲はにじみ、くずれる

手の先に指を集めてはみたけれどという眼で君が俯いている

かなり鳥は近くで鳴けり全集に Post-it ずらしつつ貼る

コルシア・デイ・セルヴィ書店 場は人を巻き込みながら街にありたり

無傷で*いられるわけがない 枝も以前ほど私をとらえはしない

メリノヒツジさんカシミア山羊さんアンゴラうさぎさん眠らむ今日は

思い知る朝 半島の麦凪ぎてはてしなく学生でいるはずだった

窓際に貼り付くように私たち机をもらい、仲良かりけり

めくるめく日々構内の全自然はわれを含みて劇的であった

ねこじゃらしに光は重い 君といたすべての場面を再現できる

 

  初期歌篇

うちの猫なまずのようなひげをしてドアのすき間の寸法はかる

赤犬があんまり速く走るからからすのえんどう見るひまもない

母犬が行ったらだめよとふりむくが子犬は私を見にきたいらしい

下敷きの青さ加減を日に透かすコスモス上下に揺れている午後

誰か地図をくれないだろうか夏の日の 歯ぎしりするほど空は青いが