読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ペンネーム・ペンネーム

去年の三月に短歌をまとめてつくって、その後十一月までブランクがあり、それからは不思議と一日か二日に一首ぐらいずつ形になっている。締まりの悪い蛇口程度のペースでも、すこしずつ何かが溜まっていくのをみるのはいい気分だ。例年より寝覚めもいい気がする。

 

穂村弘『短歌という爆弾』を読みなおし、あらためて自分の歌には共感も驚異もなければクビレもなし、ズンドウなものばかりだと思った。あと穂村弘二十四歳であの歌かようあー、ゆひらゆひら、ってなった。

ただ、葛原妙子『孤宴』(ひとりうたげ、と読む)にあったこんな言葉もよぎる。

 またついでにここで、私のもっとも好ましい歌のあり方を述べるならば、私は歌うことで訴える相手をもたないということである。故に歌は帰するところ私の独語に過ぎない。ただ独語するためには精選したもっともてきとうなことばが選ばれなければならないのである。

 こうして私は、歌とは独語の形をとるときにもっとも美しいと信じている一人である。ところで独語という聴き手や返事を求めない歌が、たまたま他に響いていってその人を感動させることがあり得るのだが、そのような時、私は素直にその幸福をよろこぶのである。 

精選したもっともてきとうなことば(てきとうがひらがななのがまたいいのだが)、結局この「精選」という作業が自分の性にあっているようだ。おかげで職場への行き帰りが楽しく、ふだんはイヤフォンミュージック中毒の自分がわざわざ無音を選んでiPhoneを相手にしているくらいだ(耳栓代わりに突っ込んだままではいるけど)。いまはまだ他人の可聴域外でぶつぶつ言っているだけみたいな歌しかできないが、ゆくゆくはどこかの歌会に出没したいです。おりてこい詠草。詠草ってなんだかよく知らないが、これがなければ歌会に行ってもすることがないらしい。

 

***

 

先週、「平日の夜に万葉集を読む会」に参加した。これは自分の歌を持って行く必要のない勉強会のようなもの。十四人の参加者のうち僕(古本屋)を除いて若手の歌人の方ばかりで、みなさん筆名を名乗っていた。雑誌や同人誌で一方的に知っている方がたくさんで、とにかくびびる。

会の進行はこんなふう。最初の十五分ほどをつかい、集の劈頭に据えられた雄略天皇長歌から柿本人麻呂の歌まで約三十首のなかから各人が二首を選び、その後それぞれが簡単な自己紹介とともに選んだ歌を開示する。そして得票数の多い歌から順に選歌した人が感想を述べていくというもの。二首選というのは歌会でもよくあるシステムらしい。

まず開会早々、尊敬する小鳥系歌人の方と二首が二首とも被ってしまい、冷汗三斗。自分の選歌眼をあらためて見直したがそれから先はよく覚えていない。緊張してしまったのね……。

ちなみに選んだのは以下のふたつ。どちらも長歌となった。

冬ごもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてそしのふ 青きをば 置きてそ歎く そこし恨めし 秋山われは (額田王

み吉野の 耳我の峰に 時なくそ 雪は降りける 間なくそ 雨は零りける その雪の 時なきが如 その雨の 間なきが如 隈もおちず 思ひつつぞ来し その山道を (天武天皇

全体の印象だけは残っていて、みんな学術的な堅苦しさ、お勉強感をあえて避け、それぞれ手探りで万葉集の感じを掴もうとしていたように思う。静かな熱気が感じられるいい会だった。来月も開催するとのことなので、ぜひまたお邪魔したい。

 

解散後の打ち上げ(?)にも混ぜてもらう。HUBなんて使うの何年ぶりだろうか、キャッシュオンデリバリーなのでボウモアアードベッグその他遠慮せず飲む。年上、年下の才気あるひとたちと歌集やらなにやらの事をわいわい話す。ふたりの歌で好きなのをそれぞれ暗唱してみせようとおもったが鬱陶しいのでやめた。大学の退学を決め、学籍を失う直前に早稲田大学図書館の地下二階、歌集の棚を片端からパラ読みしていた時から三年ほど、おもえば人と短歌の話をしたことがなかった。だからおおいに勇気付けられました。翌日にペンネームを考案してしまうほどには。

 

というわけで、小野木裕として歌をつくっていくことにしました。沐浴にあらず、寝ますおやすみ。